「人間になる」と誓ったのは、会社の元同僚と居酒屋で飲んでいた夜だった。
当時の私は、ちょうど彼女に振られたばかりで、底抜けに落ち込んでいた。
別れの理由は、至極シンプルだった。
「あなた、変すぎるの」
そう言われた。
靴下の脱ぎっぱなしが嫌とか、服がダサいとかなら改善の余地がある。むしろ、そういう具体的な指摘ならありがたかった。けれど、彼女が言ったのは「考え方や言動が変」というものだった。
思考、言動など「私」の中心をなす要素に対して、合わないとなると、それは根本的に合わないということになる。根本的に合わない人と合うようになるためには、根本を改善する他ない。根本を改善するということは、私の私たる所以を殺すということだ。
私はまだ死にたくない。私に彼女を説得する術は何もなかった。
そんな話を元同僚に打ち明けると、ある一人が言った。
「確かに、にゃむにゃむさんの“変さ”って、友達としてなら面白いけど、毎日一緒に暮らすってなると、ちょっとキツイかもね」
慰める気があったのかはわからない。だが、その言葉は全く慰めになっていなかった。周りと馴染めず、いつもどこか浮いていた自分の性格を、ようやく個性だと認めることができた人生だったが、ここにきてまたしても個性が大きな欠点として姿を現すとは、思ってもみなかった。
まともにならなければならない
まともな人間にならなければならない
というか、そもそも、まず人間にならなければならない
どうやら私の生活は、「人間のそれ」ではなかったらしい。
1R4.5畳で生活し、食事は完全栄養食で済ませているし、クローゼットがないので服は2,3着しか所持していない。ピアノとベースがある一方、冷蔵庫も電子レンジも置いていないこの部屋は、さながら「夢追い限界音大生」のようだった。
それが、彼女が私との理想的な将来を想像することを阻んでいた。こんな生活の人間が、同棲した後にまともな生活を送ってくれるはずがない。
しかし私は反論したい。
まともな家さえ与えてもらえれば、私はちゃんと“まとも”に暮らす自信がある。今はただ、4.5畳という縛りのなかで最適解を模索した結果、こうなってしまっているだけだ。これは“戦略的異常”であって、“根本的異常”ではない。
だから、私は決意した。
人間になるために、広い部屋に引っ越す。
そして、“まともな生活”を手に入れる。
1LDKの部屋を内見し、比較検討した。
災害リスクを調べ、ハザードマップを確認し、不動産情報を地図にピン留めできるアプリまで自作した。
そして今日、ついに新居を契約した。
理想の1LDK ――
……ではなく、1R4.5畳、家賃3.7万円。
なぜだ。
なぜ私はいつもこうなってしまうのか。
私はあまりにも、1R4.5畳に愛されすぎている。